また 幸福実現党は国会議員を送り出せなかった

Last-modified: Wed, 07 Nov 2018 18:05:21 JST (2019d)
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 今回の第24回参議院議員選挙(2016)で比例代表2名、全選挙区に45名を候補者として送り出しながら、また1名の当選者も出すことができなかった。 2009年から何回目の国政選挙かは数えてもいないが、毎回大量の候補者を出しながら、当選者を1名も出していない。

 2009年は立党初年度であり、当選者を出せなくても仕方なかったかもしれないが、幸福実現党はいったい国会議員を送り出す気があるのかと言われても仕方がないのではないだろうか。 選挙に参加することに意義を感じているだけなのではないだろうか。

 選挙区で当選者の得票数の1割にも満たない得票数での落選でも、立候補者に何ら悔しさを感じないのは、幸福実現党のさわやかさをアピールしたいからなのだろうか。 周りからは負け癖がついているだけと見えてしまう。

 自由民主党のポピュリズムや、マスコミ権力を批判して、選挙を戦おうとうとしている。 民主主義は数で決まるのがルールだから、ある程度のポピュリズムは仕方がない。 選挙でポリュリズムを批判するのは負け犬の遠吠えにしか聞こえない。

 確かにマスコミにおもねすぎるのはまずいかもしれないが、選挙でわざわざマスコミに喧嘩を売る必要はないと思う。 いかにマスコミが政治的公平性を保つべきだとしてもマスコミ批判をしている党に対して冷たくなるのは当然ではないだろうか。

 本当にマスコミに喧嘩を売りたいのであれば、選挙が終わってから、それらの件について裁判で戦えばよいと考える。 1年程度の話であれば、裁判で戦うほどの問題ではないかもしれないが、2009年から2016年までとしても8年間に渡る長期の問題になっている。 本当にマスコミを不当だと思っているのであれば、裁判で戦うべきだと思う。 でなければ、それを負けの理由とすべきではないと思う。

 今回の選挙区で、幸福実現党候補に入れた票を、仮に自由民主党の候補者に入れておれば自由民主党候補者が当選していたという選挙区が何カ所もあった。 自由民主党を批判するのもよいが、結果として純粋左派候補者を利することに本当に意味があるのだろうか。 自由民主党と民進党とは五十歩百歩だということなのだろうか。

 本当に幸福実現党が勝つ気があるのであれば、これらを必要悪と考えるが、幸福実現党にその気迫が感じられないのでしっくりこない。 幸福実現党の得票数は確実に増えてきている。 幸福実現党の得票数が少ないうちは大勢に影響がなかったが、得票数が中途半端に多いと、幸福実現党の選挙活動は左派を利するだけの行為になるということを認識して臨んでいただきたい。

 それにしても不可思議なのは、選挙区での幸福実現党の総得票数は百万票近くあったのに、比例代表での総得票数が40万票にも満たなかったことだ。 ということは、選挙区で幸福実現党候補者に投票した人の半分以上は比例代表で幸福実現党に投票していないということになる。 特に幸福実現党の場合は、比例代表が主で、選挙区が従である。 この認識が幸福実現党幹部に欠如していることの現れではないだろうか。

 創価学会を宗教団体だとは思っていないので、幸福実現党が唯一の宗教政党だと認識している。 幸福実現党は宗教政党というと、必ず政教分離を話題にする。 国民が宗教政党に好意的でないのは、政教分離からではないと思う。 宗教政党が何を考えて政治(選挙)をしているかが分からないからではないだろうか。

 政治は結果責任だとよく言われる。 その第一歩が選挙での当選である。 落選しても、頑張ったから良いだとか、国民の政策理解が足りなかったからだとか、次回頑張ればよいだとか言い訳をして笑っておられても困る。 国民は、執着を嫌う宗教家に結果責任を問われる政治を任せることへの不安を感じているのではないだろうか。 創価学会/公明党は、しっかりと執着を持った団体だと思うのでこのような問題は発生しない。

 宗教と政治は、表裏一体だとは思う。 しかし、表と裏ではまったく違うということもしっかりと認識していただきたい。 このような淡白な選挙をするということは、政治姿勢についても、結果責任をとらない淡白な政治をする政党であると見られるということである。

 幸福実現党国会議員の誕生と日本人横綱の誕生と、果たしてどちらが早いのだろうか。


―2016.7.12―