映画「ノア 約束の舟」を鑑賞して
先日、映画「ノア 約束の舟」を観てきた。
壮大なスケールの映像をどのように描いているかにも関心があったが、旧約聖書をどのような解釈で描かれているかに興味があり、鑑賞してきた。
エンターテインメントを目指したものだからかもしれないが、実に後味の悪い映画だった。
別に高貴な宗教映画を期待していたわけではなかったつもりだが、他のハリウッド映画同様、あまりにも残虐な映画だった。
神(Creator)から最後に選ばれた者があれほど残虐でも良いのだろうか。
また、神が、いかに悪行を重ねているとは言え、人類の滅亡を考えるだろうか。
仮に神が人類滅亡を考えたとしたら、人類を創造した神に誤りがあったことを認めることになり、自己矛盾が発生してしまう。
人類が神に似せて創造されたとすれば、ましてである。
確かに、ウィキペディアによると、聖書の原型を破壊しているなど、キリスト教徒やユダヤ教徒から否定的な見解が寄せられているようである。
いかに「表現の自由」が尊重される文化であるとは言え、このように神を冒涜するような映画が許されるのだろうか。
仮に、聖書や古代史とは全く別のフィクションであるというのなら、「Noah」という表現は避けるべきではないだろうか。
それとも、このような残虐な解釈はとても仏教徒には考えられないが、キリスト教徒やユダヤ教徒ではそれほど特殊なことではないのだろうか。
キリスト教国やユダヤ教国では、中国が主張している「南京大虐殺」や韓国が主張している「従軍慰安婦」など、仏教国や神道国ではとても信じられないような残虐な行為を、簡単に信じてしまう背景がここにあるのではと、勘ぐりたくなってしまうというと言い過ぎだろうか。
近年、仏教国の残虐度がしだいに増してきているのは、グローバル化と関係があるのではと考えるのは考えすぎだろうか。
ハリウッドの残虐な映画を見ないようにしていたが、今回不覚だった。
―2014.7.17―