金権入学はなぜ悪い

Last-modified: Sun, 21 Oct 2018 14:59:28 JST (2036d)
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 文部科学省科学技術・学術政策局長(当時)の佐野太容疑者が、私立大学支援事業の選定を見返りに、自分の子どもを東京医科大学に合格させたとして、受託収賄容疑で東京地検特捜部に逮捕された。 受託収賄が良くないことは当然だが、医大にお金を積んで子供を入学させようとすることもいけないかのような風潮があるが、これはなぜいけないのだろうか。

 もっと成績の良い受験生の入学する権利を奪うからだろうか。 大学には国民の税金が投入されており、受験生に対して公平性を保つ義務があるからだろうか。 仮に、国からの一人当たり補助金を上回るお金を寄付金や授業料などとして払い、一般入学生と別枠で入学させるとしたら、先のふたつの問題点はなくなる。 それでも批判されるとすれば、それは貧乏人の妬みではないだろうか。

 特に医大などの場合、親がどうしても家業を継がせたいと考え、本人もそれを望むとすれば、その権利を奪う意味があるのだろうか。 入学試験が当該大学生としての最低レベルの学力の確認ということであれば理解できなくもないが、入学試験の成績上位者が入学の権利を得るというのは、公平性があることは否定しないが、必然性は感じられない。

 成績上位者と寄付金上位者とのふたつの入り口を設けると入学生に明らかな二つのグループを構築することになるので、入学試験の合格点数の不足点数に応じた相当額を寄付金として補填してもらうのが現実的だろう。 大学生としての一定学力があるという前提だが、受験勉強に労力と時間を費やすより、大学生としての学問に労力と時間を費やしたほうが合理的ではないかと思慮する。

 寄付金が前提となって、お金がないと入学できないというのも問題なので、寄付金なしでも入れる最低枠の確保はある程度必要だろう。 お金は汚いものだという曲がった正義を振りかざすのではなく、寄付金を払って堂々と表口から入学できる社会があっても良いと思慮する。 当然のことながら、医師国家試験などは当然のこととして、大学入学後の進級はお金ではなく、公平に学力で判定されることが前提になる。

 大学では、基礎研究の重要性も大切だが、社会に有用な研究も積極的に行い、国からの補助金に頼らない経営努力を行ってほしい。 これにより、「私立大学研究ブランディング事業」などという文科省の受託収賄の温床というか、意味不明の補助金に頼らず、社会に有意義な大学を目指し、社会に貢献できる大学生の輩出が可能になるのではないだろうか。 文科省も、自身の組織維持や強化のために無駄金を使うのではなく、社会に有用な大学を育成するために何をすべきかを考えても良いのでは。

参考