ノーベル平和賞の選考に思う

Last-modified: Sun, 21 Oct 2018 14:42:24 JST (2036d)
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 橋下徹氏の「ノーベル平和賞で平和は来ない」を拝読させていただいて、僭越ながら確かにその通りだと思った。 ノーベル平和賞に対して、日本の外務省もそれなりの肯定的なコメントをわざわざ発表している。 日本人は、信仰ではないかと思えるほどノーベル賞に対する評価が過剰に高いような気がするが、ノーベル平和賞はそれほど評価されるべきものだろうか。

 「ノーベル物理学賞」「ノーベル化学賞」「ノーベル生理学・医学賞」は評価の多寡は別として、「物理学」「化学」「生理学・医学」のそれぞれの分野でそれなりに評価された実績を伴って表彰されている。 「ノーベル文学賞」の評価は難しく、見解の分かれる分野だと推察するが、それなりの作品を創作した人物が表彰されていると思慮する。 しかし、「ノーベル平和賞」については、文学賞以上に評価が難しいにもかかわらず、平和への貢献実績ではなく、実績が全くないにもかかわらず、耳障りの良い発言をしているというだけで表彰されるというケースが2017年に限らず多々発生している。

 誰をどのように表彰しようとノルウェーの自由であり、自国の政治的背景が加味されても仕方がないのかもしれない。 時勢にあったタイムリーな表彰ができることは、素晴らしいことである。 しかし、「ノーベル平和賞」は世界的に影響も大きく、「ノーベル賞」の権威付けのためにも、表彰が他の賞と同様に遅くなってしまうかもしれないが、平和への確実な実績に対する評価にシフトしていただきたいと願うものである。 そうすれば、「憲法9条をノーベル平和賞に」などというふざけた、推薦もできなくなると思慮する。

 「ノーベル平和賞」の受賞者のすべてが間違っていると認識しているわけではない。 玉石混交だと言いたいのである。 「ノーベル平和賞受賞者」の行動が戦争や紛争の原因をつくったり、「ノーベル平和賞」の受賞が戦争や紛争の原因だったりは、していないだろうか。 「ノーベル平和賞」受賞の賞金の分配が原因で紛争が起きたという冗談のような話も聞いたりする。

 「ノーベル平和賞」は、「ノーベル賞」の発生の経緯から考えて、核となる賞だと思慮する。 「ノーベル平和賞」の選考委員会は、このことを謙虚に認識していただき、正しく軌道修正していただきたいものである。 これがなされない限り、世界は「ノーベル平和賞」の表彰を、他の「ノーベル賞」と同等かのような取扱いをすべきではないと思慮するが、いかがなものか。


―2017.12.13―